葉上照澄
(はがみ しょうちょう)
天台宗
葉上 照澄(はがみ しょうちょう、1903年 - 1989年)天台宗僧侶。大阿闍梨。東京帝国大学文学部哲学科卒業。大正大学教授。仏教伝道協会理事長。1953年、千日回峰行大行満(達成)。
仏教って何だろうか。
そう思ったとき、たいてい私たちは、なにか観念的なものを想像すると同時に、それとはまったくちがった意味で、現実のお寺やお坊さんやお葬式を考えてしまうのです。しかもその二つの間にはなにか違和感があるような気がしながらも、それ以上考えてみようともしないでいることが多いのです。
それは、私たちが、仏教の真理を行動に表している人の、人間性あるいは心根にふれていないからだろうと思います。真理を実践している美しい心根の人に出会ったら、私たちはどんなにかものの見方がかわることでしょうか。
仏教を一口にいうと、「三宝に帰依(きえ)する」ということになります。
仏に帰依し奉(たてまつ)る
法に帰依し奉る
僧に帰依し奉る
この三つが三宝帰依です。
「仏」は歴史上の人物としての釈尊(しゃくそん)ですが、釈尊のこころは、真理として私たちにもめぐまれているのです。その内なるこころを呼びさましてくださるのが、眼に見える形となったさまざまな仏像です。
「法」は、釈尊の説かれたおしえです。そのおしえは自己の内なる真理として聴こえるものであり、その内なる真実を呼び覚ましてくれるのが、文字となって伝わっているお経です。
「僧」は、もともと、釈尊のまわりに集まったお弟子のグループを意味していました。心のやすらぎを求める人々が集まるとそこにグループのもつ力の尊さというか真実の力が生まれます。そして、そういう心根の美しい尊い仲間になるのが、現実の道の友であり、またそれは仏教徒としての仲間でもあるわけです。
このように、三宝は仏教の基本です。聖徳太子が、日本の精神文化の黎明(れいめい)期にいわれた、
「篤く三宝をうやまえ」
というのは、仏と、おしえと、聖なる仲間という、自己の思いをはるかにこえた、大いなる真実の前に謙虚になることによって、自己の小さなこころから、真実の大きな世界へひろがってゆくということを意味したものだったのです。
ベルギーのブリュッセルで世界平和会議があり、私は日本代表団の一人として参加しました。会議の二日目に「仏教平和の祈り」というのをすることになっていたのですが、ところが、どういう儀式をしたらよいかわからない。結局「三帰依文(さんきえもん)」が中心だろうということになりました。仏教の仏教らしさは「三帰依文」につきるといえるわけです。
その三宝の中の、最後の僧に帰依し、随順することばは、
自ら僧に帰依したてまつる
まさに願わくは衆生と共に
大衆を統理して一切無碍(むげ)ならん
というのです。手を合わせ、口にとなえ、深くこころにとどめて、その真実の前に頭をたれる。それが仏教徒としての出発点なのです。
僧に帰依するというのは、「一切無碍ならん」ということだというのです。無碍というのは“さわりなし“”障害なし“”仲間たちの間にまごころが無限に広がってゆく“ということですが、そういう融通性(ゆうづうせい)のある「真実眼(しんじつがん)」をひらこうというわけです。
「僧」というのは誰のことかというと、お経には、
大聖文殊師利菩薩(だいしょうもんじゅしりぼさつ)
大乗普賢菩薩(だいじょうふげんぼさつ)
大悲観世音菩薩(だいひかんぜおんぼさつ)
とあります。つまり僧というのは「大乗の菩薩」のことです。
大乗の菩薩というのは何かといいますと、自分のみがさとりを得、自分のみがすくわれるために修行をした人ではなく自分のためにのみしていたのではどんなによいことをしても、その心のせまさの故に無限のおおらかさには恵まれないと気づいた人々のことです。理想主義、完璧主義では必ずしも人間は幸せになれません。欠点を認め、不完全のままに、いや不完全で欠点だらけの自分たちだからこそ、人の欠点をゆるし、人の苦しみ、悲しみをゆるしあい、たすけあわなければ生きてゆけないお互いであることに気づき、そこに仏教のすくいもとめた人びと、それを大乗の菩薩というのです。ごくふつうの人びとすべてをのせることのできるのりもの、という意味で「大乗」というのです。
その大乗の菩薩の筆頭が文殊菩薩なのです。この菩薩は、智慧の菩薩、人びとに正しい智慧、正しいものの見方を開眼させたいと願って永遠に説法・仏教の講義をつづけているお方です。その次が普賢菩薩で、このお方は慈悲・愛情と悲しみをわかってくださり、懺悔をきいてくださるお方なのです。その次が観世音菩薩、このお方は、人びとが苦しみ、真剣になって「まこと」を願う気持ちになったとき、そのまこと・真実をききとどけてくださる菩薩です。
つまり菩薩とは、真理をみる眼をわかちたいというめざめ、深い悲しみをわかちたいという愛、願いの心をわかちたいといういたみによって、囲りの人びとのこころが痛いほどよくわかる方であり、その人びとのこころとつながっている故に、みずからが支えられ生きいきとしている方のことなのです。
「僧に帰依する」ということは、そういう菩薩の心根を美しいと思うことです。
そして、そういう心根を美しいと思うこととは、とりもなおさず、自分がそういう心根になっていることなのです。
人の苦しみ、悲しみがよくわかる、そして、その人になにかをしてあげたい、その思いが私たち自身を支えてくれるものです。しかし、私たちのそういう思いにかかわらず、家族、友人、そして周りの人びとに、いかほどのことをしてあげることができましょう。なすべきことの十分の一のこともなしえぬまま、家族の死をみとったときのあの無念さのように、真剣になればなるほど、自己の愛情のむなしさ、無力さというものを感じさせられるものです。
そういうとき、人は「他への思いやりが私自身を支えている」という菩薩精神は絵そらごとであり、現実ばなれした理想でしかないのではないかという疑いをいだくものです。それは一ぺんに理想的なことを想像してしまうからです。
いま、ここで、自分にできることは何か。無力でおろかしい自分が、周りの愛する人びとのためにしなければならないまず最初のことは何か。自分にできることは何か、この現実からはじめるべきなのです。