ネルケ無方の処方箋

VOL.03 苦しむこと

 誰にも目覚めの瞬間がある。私が6歳のクリスマスの日のことだ。突然コンコンと家のドアをたたく音が聞こえた。恐る恐るドアを開けると、そこには白いひげのサンタさんが片手に大きな白いバッグ、もう片手には竹ぼうきを持って立っているではないか!ドイツのサンタは24日の夕方に各家を回り、いい子にはプレゼントあげるのだが、悪い子には竹ぼうきで尻を叩くのだ。

「ネルケ君。君は今年一年、いい子だったのかなぁ!?」

とサンタさんに聞かれたときには

「は、はぁぁぃ・・・」

と声がのどにつまりそうになっていた。お世辞にも「いい子」と言えないのは、私自身が一番わかっていたからだ。

「おかあさん。それは本当のことでしょうか」

とサンタさんが私の横に立っている母に声をかけた。

「う~ん、どうでしょう。本当はもっといい子になってほしいんだけどねぇ」

と母親は私に訴えるように言った。サンタさんの表情は厳しくなり、

「おやおや困りましたね」

と私に言った。緊張のあまりおしっこが漏れそうでもじもじしていたそのとき

「来年はきっともっと頑張ってくれると思うから、今年は大目に見てあげましょうか、サンタさん」

と母は助け舟を出してくれた。

「おぉそうか、そうか。じゃぁ、これは君へのプレゼントだよ」

 嬉しさで目を潤ませサンタさんの顔を見つめるとなにやら見慣れた顔ではないか。そこで綿で白いひげをつけただけの、隣の家に住んでいるおじさんであることに気づいた。「目からうろこ」とはこのことだ。

 次の年に、母はがんで急死した。37歳だった。
「どうせ死ぬなら、なぜ生きらなければならないのか」という疑問がそのころの私の胸にあった。牧師だった母方の祖父は、「命は、神さまがあなたに与えた贈り物だよ。それを大切にしなさい」という。ところが、サンタさんの正体に気づいてしまった私は、神の存在も疑わしくなっていた。人生の意味を聞くと、父は「それは学校の先生に聞いてみなさい」と逃げる。学校の先生は「もう少し大きくなったらみんなでお勉強するのよ」とかわす。どうやら、大人たちもわかっていないらしい。そして友達には「お前は変だなぁ。俺たちはそんなことを今まで一度も考えたことがないぜ」という。生きる意味に苦しんでいるのは、ひょっとして私だけなのだろうか?

「坐禅メディテーションをしてみないか」

 それは一九八四年の秋だった。高校生だった私は、宗教の怪しげな勧誘だと思いながらも断りきれず、とりあえず参加してみることにした。その結果として、今日の私がいる。
「君はどこにいるんだい?」と聞かれれば高校生の私はきっと自分の頭を指していたと思います。
「この中で考え事をしているのが僕だよ!」
 ところが、姿勢が変われば、どういうわけか自分が変わる。坐禅にはまってしまった一番目の理由は、首より下の自分の発見である。そして16年間お世話になった呼吸にも、坐禅して始めた気づいた。鳥の声、風の音…身近なものほど、気づかなかったことの多いことに驚いた。坐禅と出会って一年後、顧問の先生は学校をやめてしまった。
「君はこれから、サークルの責任者になってくれないか」と、一度でやめるつもりで坐禅を初めたに過ぎないこの私に頼んできた時である。私は公立図書館に駆け込み、片端から仏教書を借りては読み漁った。釈尊の名を知ったのも、その時が初めてだった。二十歳過ぎまで何の不自由もない生活を送っていたはずの王子が、「すべては苦である」と言って出家したそうだ。私の周りの若者は「仏教なんて、暗い宗教だね」と言っていたが、ずばりと「苦しい」というその釈尊に、私は妙な親近感を覚えた。

「人生に悩んでいるのは自分一人ではなかった!」と気づいた。二千五百年前から、私の仲間がこの世にいたのだ。
釈尊が菩提樹の下で坐禅をし、解脱を得たといわれている。ならば、私も日本に渡って禅僧になれば、すべての問題を解決できるのではないだろうか… そう思っていたものだ。

 私を坐禅に誘っていた、定年退職間際の先生にそれを話すと、顔色を変えて「ちょっと待ってくれ」とブレーキをかけられた。一人の青年の人生を狂わしてはいけないとでも思っていたのだろうか。
「今の君は悟りたいという一念で燃えているかもしれないが、三年後その熱も冷めるだろう。まず大学に進学してからにしなさい」

 坐禅道場に通いながら、私は日本へ渡る準備としてドイツの大学で日本語を習い始めた。私の「求道」にずれが生じてきたのは、そのころからだ。坐禅をするのも、日本語を学ぶのも、すべて「悟るため」であった。いつの間にか、私は「悟り」という謎のニンジンを追いかけるロバに変身していたのだ。

 22歳の時、私は安泰寺の門を叩くことになった。ここで出家をすれば、いずれは悟れると期待していたのだ。ところが、師匠にこう言われた。

「お前の問題の解決は、棚から牡丹餅のようにはやってこない。苦しみのそもそもの原因は、むさぼりと憎しみと無明である。無明とは、今ここ、自分の在り方が分からないこと。だから、絶えず今ここから逃れようとする。今ここにない、別の何かを手に入れようとする。世間の人たちは、お金を追いかけて、異性を追いかけて、幸せを追いかえている。悟りを追いかけているお前は結局、同じスケベ根性でここまで来ているのではないか」

 耳の痛い指摘であった。しかし安泰寺まで来た以上、何らかの成果を成し遂げたい。まさか、手ぶらで国に帰るわけにもいかないだろう。高校生から続けていた坐禅、大学で学んでいた日本語… それは何のためであったのだろうか。生きる苦しみを、お寺の修行で軽減されないのだろうか。

「坐禅しても、何にもならんぞ。この『何にもならん』ということこそ、本当に腑に落ちるまでやっておかんと、本当に何にもならん!」

 禅問答のようなこの言葉は、さっぱりわからなかった。苦しみから逃れるためにこそ、仏教の修行があったのでは? 「何にもならん」と言われれば困るのだ! しかし、この時点の私には、後戻りという選択肢はもはやなかった。師匠の言う、その何にもならん坐禅を、命を懸けてでもやると決心した。

ネルケ無方

安泰寺住職。1968 年のドイツに生まれ、16 才のときに高校のサークルで坐禅と出合う。将来禅僧になることを夢見て、大学で哲学と日本学を専攻、在学中に1年間日本に留学する。安泰寺に上山し、半年間の修行体験を得る。帰国後に大学を修士課程で卒業し、再び安泰寺に入門。八代目の住職、宮浦信雄老師の弟子となる。33才のときに、独立した禅道場を開くために下山。
大阪城公園で「流転会」と称してホームレス雲水生活を開始する。
その6か月後の2002 年2月、師匠の訃報を聞き、テントをたたんで山に戻る。現在は、住職として、雲水と年間100人を超える国内外の参禅者を指導。 大阪で知り合った妻と結婚をし、3人の子供の父親でもある。

ネルケ無方先生