ネルケ無方の処方箋

VOL.04 手放すこと

「心を尽くして神を愛し、自分と同じように隣人を愛せよ」
  第一の戒めを聞かれたイエスはそう答えた。自らの十字架を背負い、人類の罪を贖ったという。
一方の仏教は「生きる事は苦しい」という気づきから始まり、各々の修行と解脱を教えのベースにしている。医師が処方箋を出すように、釈尊はその実物見本を見せたものの、その見本にならって実践しなければならないのは仏教徒一人ひとりの使命である。
  「自らをよりどころとせよ。他をよりどころとせざれ」というのが、死ぬ間際の釈尊が弟子たちに残した教えである。
  「私は私、あなたはあなた」、釈尊の教えにはそういうドライなところもある。生死の苦しみから解脱するためには、誰でも憎まないことはもちろんだが、キリスト教のように「敵を愛せよ」と仏教では言わない。キリスト教の愛に一番近いのは、仏教の言う四無量心だと思う。相手を慈しみ、その苦しみを分かち合う心と相手の幸せを喜ぶ心(慈と悲と喜)に加えて、最後には「捨」という完全な手放しが置かれている。このことも、仏教にやや消極的なイメージを与えているではないだろうか。そもそも四無量心は仏教の出発点というより、多くの人には「上級者向け」の話と思われている。少なくとも私自身の中に仏教的な愛の表現に興味がわいてきたのは、つい最近のことだ。


  キリスト教の中で育った私は、教会の中で「愛」という言葉をうんざりするほど聞かされた。「イエスはあなたを愛している!」ーがしかし、そのイエスは遠い昔に死んだのではないかと、疑い深い私は思ったものだ。彼に愛されている実感はどうしても湧いてこないのだ。そもそも本当に存在しているかどうか分からない「神」をどうして愛せるのか? 人を自分と同じくらいに大事にする…それなら、頭でなんとなく分かる。なるほど、人間は皆平等なはずだから、自分を一番だと考えるのはおかしい。しかし、私は子供の頃から、「生まれてこないほうがよかったのでは?」と思っていた。つまり、自分すら愛せていなかった。自分も愛せないのに、隣人が愛せるはずがない。「愛している、愛してくれ、愛しよう」という宗教は、私の問題に答えてくれなかったのだ。

  同じように感じる日本人もいるかもしれないが、多くの欧米人は「仏教は暗い」という。諸行無常といい、一切皆苦といい、あまりにもネガティブな教えだ。でも私は違っていた。「すべては苦だ」と言う釈尊に、「よくぞ言ってくれた!」と言いたかった。生死は苦だと喝破した釈尊は私の最初のソウルメイトとなった。自分自身が嫌いのに、どうして人類を愛せるか? まず自分の問題を解決しないで、どうして世界の問題が解決しうるのか? 釈尊のように自分の苦しみと向き合い、その原因を突き止めたかった。原因さえわかれば、歯医者が虫歯を抜くように私も苦しみの世界から解脱できると思っていたものだ。


  十六歳から坐禅をはじめ、二十二歳で安泰寺にたどり着いた。そのころ、仏陀といえば歴史上の釈迦牟尼仏という知識しかなく、日本仏教に様々な如来が拝まれるほか、多くの菩薩も信仰の対象にされていることには驚いた。「東司(とうす)」と呼ばれる禅寺のトイレに至っては、烏枢沙摩明王((うすさまみょうおう)というインドの神様まで祭られている。
「キリスト教にはイエス・キリストのほかに神がいないが、仏教にはあらゆる仏や菩薩がいるようですね。ところで、安泰寺の本堂にある仏は何ブツでしょうか?」
  入門当初のころ、住職に聞いてみた。
  「本堂の仏なんか、誰でもいいじゃないか。お前自身がここで仏にならなければ、どこを探しても仏は見つからないぞ」
  この答えに驚いたとことはもちろんだが、なっとくするような思いもした。
  「そうか、仏教においては俺が主役か!」


  禅寺では坐禅や読経のほか、台所の仕事も大事な修行の一つとされている。典座(てんぞ、禅寺の台所の責任者)は喜心・老心・大心を料理という形に変えなければならない。初めて料理当番に当たった時に、乾麺の頂きものがあった。「これでお昼にうどんを作ってみなさい」と先輩に言われたが、ドイツにはうどんというものがない。スパゲッティー・アル・デンテのつもりでそのうどんを湯がいてみたら、食後に「硬すぎ!」と指摘された。翌日は、同じうどんを柔らかくしてやろうと思い、三十分ほど湯がいた。鍋の中で、完全に溶けてしまったのだ。
  「どうせ、胃袋に入れば同じことだ」と言い訳しようとしたが、「なんとお粗末なこと! これでも修行しているつもりか?」と頭ごなしに怒られた。毎日、料理ばかりのことで怒られていたものだから、ついに反論してしまった。
  「僕は何も、料理の勉強をしに日本に来たわけではない。仏教が知りたい。自分の人生問題を解決したいのだ!」
  それを横で聞いていた住職は大きな声を出した。
  「お前なんか、どうでもいい!」
  主役であるはずの私のことが、どうして「どうでもいい」と言われなければならないのか、その時はさっぱりわからなかった。


  典座の修行もさることながら、坐禅も大変だった。安泰寺では毎月、接心という集中的な修行期間がある。普段は坐禅を一日、四時間行うが、接心の間は五日間続けて、朝の四時から夜の九時まで無言で坐りっぱなし… 頑張れば、一日目は何とかクリアできても、二日目から地獄が始まる。足も痛ければ、腰も痛い。ジーっと壁を見つめれば、様々な思いが頭をよぎる。「どうして、ここでこんなことをしているのか? ドイツに帰って、まともな職を手に付けたほうがよいのでは?」
  なにせよ、坐禅しても何もならないという住職の一喝が耳に残る。何もならない坐禅のために、ここまで苦しい思いをしなくてはならないのだろうか。しかし、このままドイツに帰っても、私はただの負け犬。私の問題がここで解決されなければ、どこへ行っても、永遠に解決されないだろう。どうしてか、この確信だけが私を安泰寺にとどめてくれた。
  それにしても、坐禅の痛さは半端ない。二日目が生き地獄なら、三日目は死んでしまうのでは本気で思ったことは何度もある。なにせよ、三日目には山の四日目がまだ先にあるのだ。
  「今がこんなに苦しいなら、明日の今頃は耐えられない!」
  そういうときは、歯を食いしばって百まで数えてみたり、住職に気づかれないように静かに足をうごかしてみたり、何とかしてごまかしてみた。ところが、ごまかしの接心を何回やっても、残るのは自己嫌悪のみ。どうせやるなら、本気で坐禅がしたい。しかし本気でやっても、そこには三日目という見えざる壁が立ちはだかっている。住職に聞けば、何らかのアドバイスをもらえるのでは期待した私がバカだった。
  「接心の最中に死にそう? 心配するな! 安泰寺の墓場にはまだ十分スペースが開いている。お前が死んだら、わしがお葬式をしてやる」
  笑えないジョークだった。


  だが、次の接心で住職の言葉を信じることにした。
  「いざというときには、坐禅中に死ねばよい。どうせいずれは死ぬだろうから、この美しい山の中で自分のお墓を立てもらおう」
  そういうあきらめに近い気持ちになった瞬間、坐禅は楽になった。もう歯を食いしばる必要はない。痛みから逃げる必要もない。このまま死のうとしたその時、不思議な気持ちになった。
  「私は生きている。いや、命が生きている! 今まで私が頑張って坐禅をしているつもりだったが、このあいだずっと、坐禅が私に坐禅をさせてくれていたのだ」
  自分を手放しにしたその時、鼻の先にぶら下げていたニンジンは消えていた。長い間、求めていたものをつかんだ… のではない。むしろ手に入れようとしていた答えは、私を超えたところにあることに気づいた。私がそれをつかむのではない。私はすでに、それにつかまれていたのだ。


  世界からの解脱を探し求めていた私が、世界という我が家を発見していた。自己をよりどころとすることは、全世界をよりどころとすることであった。
  この時から、世界は好きになり、生きることに抵抗感がなくなった。自分だけの問題を解決しようとしていた私は、この「自分だけ」という思いこそ問題だったことに気づいた。そこさえ手放せば、問題はどこにもない。そして今はわずかながら、同じ世界で共に生きている他者に対しても、いたわりの心が芽生えた気がする。人の「苦しい!」という声は、今の私にとって他人事ではなくなっている。

ネルケ無方

安泰寺住職。1968 年のドイツに生まれ、16 才のときに高校のサークルで坐禅と出合う。将来禅僧になることを夢見て、大学で哲学と日本学を専攻、在学中に1年間日本に留学する。安泰寺に上山し、半年間の修行体験を得る。帰国後に大学を修士課程で卒業し、再び安泰寺に入門。八代目の住職、宮浦信雄老師の弟子となる。33才のときに、独立した禅道場を開くために下山。
大阪城公園で「流転会」と称してホームレス雲水生活を開始する。
その6か月後の2002 年2月、師匠の訃報を聞き、テントをたたんで山に戻る。現在は、住職として、雲水と年間100人を超える国内外の参禅者を指導。 大阪で知り合った妻と結婚をし、3人の子供の父親でもある。

ネルケ無方先生