名僧は語る

第1回:渡邊寶陽(立正大学特別栄誉教授)

大切にしている言葉

衆生見劫尽 大火所焼時 我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳 宝樹多華果 衆生所遊楽

衆生の劫尽きて大火に焼かるると見る時も、我が此の土は安穏にして天人常に充満せり。
園林・諸の堂閣は種々の宝をもって荘厳し、宝樹には華・果多くして衆生の遊楽する所なり。

(『妙法蓮華経 如来寿量品 第十六』大正蔵 9巻p.43c)
1933(昭和8)年 東京に生まれる。
立正大学仏教学部宗学科卒業、立正大学大学院博士課程単位取得、文学博士、立正大学仏教学部教授、立正大学学長(第23・25代)を歴任。
日蓮宗法立寺(東京都足立区)前住職、大僧正、立正大学特別栄誉教授。
主な著書に『日蓮宗信行論の研究』(平楽寺書店)、『日蓮のことば』(雄山閣出版)、『法華経―久遠の救い』(日本放送出版協会)および、共著書、編著書、論文多数。第48回仏教伝道文化賞受賞。

01.日蓮聖人の思い

―『妙法蓮華経』如来寿量品の偈頌を挙げていただきました。
さっそくですが、選ばれた理由というものをお教えいただけますでしょうか。
日蓮というと、すぐに『立正安国論』で、諸宗を批判したというイメージが強いのですけれども、その背後にある『法華経』への帰依をお考え頂きたいと思います。
日蓮は、安房{あわ=房総半島南部=現在の鴨川市付近}で生まれました。少年時代に「清澄寺」で学び、得度しますが、「比叡山」での勉学を志向します。が、「比叡山」に行くには莫大な資金が必要です。大尼(おおあま)という《領家》(りょうけ)の尼が、資金を調えたと思います。
比叡山の《東塔》《西塔》には、貴紳の子弟が出家生活に入られていたのでは? と愚考します。それに対して、《横川》(よかわ)は、修行者の地であったとか? 有名な恵信僧都源信が中国の「極楽往生」の仏教の教えを受けて、『往生要集』を書いたのは、日蓮の時代からすると、二百八十年ほど前の時代です。「極楽往生」の教えが盛んななかで、日蓮の胸中にあったのは、貧困の中で、やっと生き抜いている農民や漁民の姿であったのではないかと思います。生活が補償されて、ただ「死」を怖れていた高貴な方々に違和感を覚えていたのではないかと愚推します。
比叡山延暦寺は、伝教大師最澄が「法華経信仰」をもとに開いたことを、日蓮は高く評価しています。印度のお釈迦様の教えを龍樹菩薩が継承し、その教えを中国の天台大師智顗が展開し、それを日本に伝えたのが伝教大師であるとして、これを「三国三師」(さんごくさんし)とし、さらに、それを日蓮が「三国四師」(さんごくしし)として継承するのだという意識に燃えていました。僕が思うには、そうした思いに駆られて、飛ぶように故郷・安房の「清澄寺」に戻り、『法華経』の教えによって、安房国の人びとに現世安穏(げんぜあんのん))・後生善処(ごしょぜんしょ)の救いをもたらすことを念じたのではないかと思います。
日蓮は、生涯にわたって、「死」に直面しています。清澄寺で「立教開宗」を宣言したときも、地頭「東条景信」に殺されようとしますが、兄弟子二人に助けられ、東京湾を渡って、鎌倉の地に逃れます。鎌倉の地で、地道に『法華経』の教えを語って行くのですが、『経典』研究によって、「自界叛逆・他国侵逼」(じかいほんぎゃく・たこくしんぴつ)、すなわち、《内乱と外国の侵略》によって、日本の国は滅びてしまうことを怖れて、『立正安国論』を鎌倉幕府の執権・北条時頼に呈上するのです。
僕が思うにはそういう思いに駆られて、日蓮は「もうこんなところにいられない」ということで、比叡山から飛ぶように安房(現在の鴨川市清澄寺)へ戻ったのだと考えます。
繰り返しになりますけれども、日蓮は諸宗排撃の印象が強いけれども、やはり日蓮自身は、日本の国を守らなければならないという思いが強く、安房の人びとがいかに生きるかということを一生懸命考えて、『立正安国論』を書いたのだと思います。
当時は、法然さんのお弟子たちが鎌倉はじめ各地に展開している時代ですから、それに対して『法華経』でなくてはいけないと主張すれば、追放されたり、殺されそうになったのだと思います。そうした背景があって日蓮は鎌倉へ出るわけです。
日蓮にとって「如来寿量品第十六」というのは、非常に大切な経典だということです。
時代は飛びますけれども。江戸時代になりますと、庶民の間に法華経信仰が展開します。僕の寺からスカイツリーが見えます。その本所・深川という土地は、やはり貧しい庶民が集っていたのです。そういう人たちがどうやって生きるか。それで、お題目を唱えて、しつかり生きる道を求めました。それで、江戸末期から明治にかけて、みんなで隅田川を渡って。隅田川を渡ってから、池上本門寺に参詣する光景が浮世絵として普及するのです。日蓮の命日の参詣を「御会式」(おえしき)というのですが、万燈(まんどう)を中心にして隊列を組み太鼓を叩いて、「一貫三百はどうでもいい」と行進するのです。要するにるに、「3万円の日当なんかはどうでもいいのだ!今日は日蓮聖人の御命日だ!」と祈りつづけているのです。どうもそういうふうな雰囲気があったようです。
―まさに、今を生きる人のためにあるものが、『法華経』に書かれているお言葉なのだということですね。
それが、やはり明治になってからは、田中智學(国柱会創始者で宗教家)が出てきますけれども。それだけではなく、いろいろな方が出てきてね。やはりみんな生活が苦しいですから。要するに、どうやって生きるかということをいっていたのではないかと思うんです。
01.日蓮聖人の思い

02.『観心本尊抄』について

―今おうかがいした『立正安国論』もそうですが、やはり『観心本尊抄』が、日蓮聖人の遺文の中で、先生にとってはすごく大切な書だというように、ご研究から拝察します。そのことについて、お話をお聞かせいただけますか。
『観心本尊抄』というのは、日蓮の最高の哲学書なのです。それに対して、『開目抄』は北条氏一門の江馬氏に侍医として仕えた四条金吾に託した書です。『開目抄』は鎌倉在住の信徒たちにどんな法難にも堪える心構えを語っていると思います。それに対して、『観心本尊抄』は日蓮が自分の仏教哲学を究明した重要著作です。下総の千葉氏は日蓮を大切にした人ですが、その祐筆に富木常忍(ときじょうにん)という方がいらっしゃった。なお、富木常忍は晩年、出家して「富木日常」と名乗っています。日蓮は「その人に渡しておけば、間違いなく保管されるだろう」ということで富木常忍に渡したのですが、驚くことに鎌倉時代の武士階級は文字が読めない人が多かったとか?祐筆という事務官僚を抱えていたと聞きます。その『如来滅後五五百歳始観心本尊抄(にょらいめつごごごひゃくさいしかんじんほんぞんしょう)』現物が今でも伝えられているのです。
その富木常忍という方がまたすごい人で、日蓮の書いたものを全部集めて、中山法華経寺の一番奥へ閉まっていました。「とにかく火事があったら、何を置いてもそれを持ち出せ」という遺言を書いています。その後、江戸時代になってから加賀の殿様が、立派な漆塗りの5箱に収めて伝えました。今に至るまで、外へ出したのは1回だけです。官軍が攻めてきて、火を着けられてしまっては大変だというので、そのときに疎開しただけで、あとはずっと中山法華経寺の外に出したことはないのです。今、お台場というところがあります。お台場をつくったのは、伊豆半島韮山の代官であった江川家です。江川さんの娘さんと結婚した東京帝大法学部の山田三良教授が昭和3年に「法華会」という信徒組織をつくり、さらに中山法華経寺に伝えられていた日蓮聖人の真筆を収める聖教殿(しょうぎょうでん)というコンクリートづくりの収蔵館建設に尽力します。その当時、東京駅をつくった辰野金吾の一党が建設に協力しています。
大切に伝えられてきた『観心本尊抄』は、中国の天台大師の『摩訶止観』の一念三千の教えを発展させた『法華経』の教えを説いたもので本書執筆の後、大曼荼羅(だいまんだら)御本尊を明らかにします。お釈迦様は末法の人々のために、法華経を遺された。お題目を唱えることが、一番肝心だと説くわけです。「この娑婆世界は三災(さんさい=火災・水災・風災)を離れ四劫(しこう=一世界の成立より次の世界の成立までを四期に分けたもの)を出でたる常住の浄土なり」(『昭和定本 日蓮聖人遺文』p.712)と、簡明に述べています。
これは僕の解釈なのだけれども、比叡山を出るとき、すでに大曼荼羅のイメージをお持ちであったのだと考えるのです。古典的にいえば、恵心僧都源信の『往生要集』極楽浄土へ行くことのすすめが、日本仏教に展開されて行くわけですが。それに対して「いや、そうじゃないのだよ。この娑婆世界に即して、お釈迦様の救いがあるのだよ」という。死と生は決して別のものではないということが、日蓮の生涯を貫いていたのではないかと思っているのです。
02.『観心本尊抄』について

03.研究へのきっかけ

―先生はたくさんの論文をお書きになられていて1958年に印度学仏教学会で発表された『江戸中期における日蓮教学について』が、研究者としてのスタートだと思うのですけれども。研究にいたる過程について、お教え願えますか。
僕は疎開児童なのです。昭和19年、小学校5年生のときに強制疎開といって、東京にいる小学生(その頃は国民学校といいましたけれども)は、みな田舎へ行かなくてはいけない。寒村に小屋をつくってもらって、そこに住んで、そこから駅まで4kmを駆け出して通学する状況でしたが、父親の信者さんが10人ほどで「東京へ戻れ」と言って、訪ねて来てくれたのが縁です。昔の府立三中(現在の都立両国高校)に勢いで受験したら合格してしまったわけです。
父親は少年時代に大怪我をして日蓮聖人に救われたオトコなので、「坊さんになるなら、立正大学へ行け。」と言われて立正大学の「宗学科」に進学しました。その頃、都市部はB29の爆撃で全滅状態。戦後の農地解放令で地方寺院は経済的に追い詰められて、勉強しようという人はいないのです。宗学科の助手になると約束していた人が、父親が死んでしまったというので、身延山へ帰ってしまった。
今の筑波大学(東京高等師範)を出た高木豊(たかぎ ゆたか)という人が助手になりました。その先生が非常に熱心で、硲慈弘(はざま じこう)の『日本仏教の開展とその基調』を読めということで、一緒に読んでくれました。その当時、茂田井教亨(もたい きょうこう)という先生がいました。茂田井教亨先生は、小学生のときに出家し、小学校高等科(今で云えば中学)1年生のときから、立正大学の学長だった清水龍山(しみず りゅうざん)という高名な学者の講義を聞いた方なのです。だけれども、清水先生は天台大師の著作の何巻何丁の表と裏、「それを見ろ」などと言うから、すっかり嫌になったそうです。それで、立正大学では国文科に進んでしまったのです。
だから、年齢は当時の先生たちより少し上だけれども、よそ者扱いです。ただ、高木先生がその茂田井先生に就いて習えというのでした。それで、卒業する直前に大学院は進めと、わざわざ主任教授が来てくれたのです。父親からすると、法華道場継承の問題がありますから、大学進学などは許せないのだけれども。20代の高木豊先生が、非常に熱心に言うものだから、それでつい「うん」と言ってしまった(笑)。それが、僕の人生を決めることになったわけです。
その一方で、宮崎英修(みやざき えいしゅう)という先生がいまして、(今、その息子が京都の妙覚寺という本山の貫首になっています。)宮崎先生は、福井県北部の方なのだけれども、やはりきちんと研究発表しなくてはいけないというのです。勉強するといっても教義学の発表は、まだあまり認められない時代だったのです。それで、教義の歴史を勉強するという一環で、そのときに初めて高野山大学で開催された印度学仏教学会の学術大会へ行きました。
―先生は大学院に入られてから年間に3本くらい書かれたうえで博士論文も上梓される。日蓮聖人のことが、やはり中心におありなのかと思うと、いわゆる信仰について、思い出されることなどございますか。
とにかく、父親が16歳で大怪我をしてしまって。「人生もう駄目だ」ということで、死ぬつもりだったらしいのです。それで、そのとき法華経の信仰者に誘われて、そこの道場を継承するということになったということです。だから、そういう父親の思いというのが、もう頭から離れなくて。それで、また先生方から指導していただいたものだから、そういう論文を書くようなことになってしまったのです。
父親の「法華道場」というのは、普通のお寺ではありません。庵なのです。そのいわれについて、今の上野の寛永寺の浦井正明貫主さんが編集した『台東区史』というもので初めて知りました。鎌倉末期に、一遍聖が東北に行く途中に、1か月ぐらい石浜というところ(今も東京都台東区にその名前がありますけれども)で、布教したそうです。それが非常に盛んだったということで、中山法華経寺の関係の方が、とても見てはいられないということで、中山法華経寺談所というものをつくったというのです。そのときに、中山法華経寺第3世の日祐という方に御本尊=大曼荼羅を書いてもらったということです。日蓮宗は大曼荼羅を御本尊とします。それが、なんと今も九州佐賀県の光勝寺という本山に現存するのです。その伝統を、明治時代になってから継承しようとするのです。そういう小さな庵をつくった人の系譜があって。それで、僕の父親がそれを継承したわけです。
しかし、立正大学に進学してから先生たちに言われて、やはり教学の勉強をしなくては駄目だと。その当時、哲学科の先生なども僕をプッシュしてくれました。高木先生と親しかった望月一靖先生にお世話になり、その先生の父・望月日雄猊下(身延山久遠寺第87世)から、今の寺の住職を譲られました。だから、やはりそういうようにいろいろな方から「勉強しろ」と言ってくれたのだなと思い返します。僕の人生を振り返ると、自分でなにかを全て決めるのではなくて、いつも周囲の方々に押されて進んだ人生なのだと思います。
―やはり、学問はわからないことを求めていきますよね。しかし、一方で救われるという。学問と信仰というお話をいただきましたけれども、どこか大きく自分自身の研究に変化があったなど、そういうことはありますか。
それは、先ほど言ったように茂田井教亨先生が、国文科出身でしょう。ということで、先生は井伊家に仕えていた元政(げんせい)が日蓮宗の僧となって京都の深草に元政庵(現在の瑞光寺)を造った。その元政さんの研究でもやろうかと言ったところ、先ほど言った高木豊という在家の方(ついに、坊さんにはならなかった)が、「日蓮聖人の研究をするなら『観心本尊抄』の研究をしなくては駄目ではないか」と苦言を呈したそうです。それで茂田井先生は一転して、『観心本尊抄』の研究をしたということです。非常に熱心な人でした。戦後は新興宗教が盛んでしょう。それに対抗するためにどうしたらいいかということて、当時、柴又「題経寺」住職で日蓮宗宗務総長であった望月桓匡師が立正育英会というものをつくり、それから、現代宗教研究所というものをつくった人です。その最初に布教研修所という実際に教えを伝えていくことを勉強する組織をつくって、活動する人材を養成しなくてはいけないということで、茂田井先生を主任講師に要請したのです。茂田井先生はそれに応えて、情熱的に若い人を育てました。その先生に日蓮教学の基本を教えられました。
それから、僕の師僧のお寺(天王寺さんのすぐ下の日暮里・善性寺)で茂田井先生が日蓮の『開目抄』の講義を、毎月行いました。それで、僕がその担当にさせられてしまいました。多いときは100人ぐらい聴講者が集まったけれども、少ないときは2人ということもありました。
ところが、そのうち書道を勉強していて、その仲間でみんな偉くなろうという、錦耀会という仲間がワーッとやって来ました。その1人が自分のところでガリ版をやらせているから、「しゃべったことを記録して、そのときに配れ」と言うので、「開目抄講讃」という冊子を発行するお手伝いをしました。
03.研究へのきっかけ

04.お題目とは何か

―渡邊先生にとってお題目(南無妙法蓮華経)とは何でしょうか。
難しい質問です。お題目とは法華経に帰依するという意味の南無妙法蓮華経ということです。日蓮は「妙法蓮華経」の5字に釈尊が修行によって得られた功徳。仏としての因果の功徳が集約されるとし、修行者はお題目を唱えることによってその功徳を受けると説きます。でも僕にとっては子ども時代からの刷り込みですね。僕の父親は、僕を後継ぎにするつもりはなかった。毎朝6時に信者さんがお参りに来るのですが、僕は2階に寝ていて、勤行に出ろと言われたことがない。ところが、東京の下町が丸焼けになってしまったので、父が道場のもの150kgを二輪車に乗せて、田舎へ持って来て、御本尊をお守りしろという。僕はお経なんて習ったことはないし、習う気もなかった。ところが父に言われて、手を合わせて「無上甚深。。。」と唱えたら、お経がすらすらと口から出てしまったのです。驚きましたね。それで、あとはお経の本を開いて読誦しました。(やはりどことなく聞いていたのですね。)そんなこともあって、立正大学へ行くことになって。今の我々の後輩の人たちにとっては、「今のままお寺のままやっていけばいいのでしょう?」みたいな空気があるような気がします。僕の父親は下町でいろいろな人の相談を受けて、やっていたのです。
だから、それに応えるためには、やはりお題目を唱える。そういうことに徹しなくてはいけないということは、やはりどこかにありますね。ただ、それは理屈を言うと、法華経を理解するというと「お題目を唱えることは、どういうことなのだ」ということで、非常に難しい問題なのですけれどもね。
04.お題目とは何か

05.後学へのメッセージ

―最後にこれを読む後学へのメッセージをお願いします。
今の時代は深く考えない人が多いような気がします。基本的な追求が必要だとしみじみ思います。
僕の時代はいろいろな人が出入りする時代でした。インドのジャイナ教の学校の学長が夫婦で見えたこともあります。欧米の大学から立正大学へ日蓮教学の研究に来た方も何人もいます。大正大学の一島正真という先生がまだ若い頃、ハワイに布教しに行っていたらしいのです。それでハワイ大学の先生と仲良くなって、ジョージ・タナベ(宗教学部教授)とウイリアム・タナベ(芸術学部教授)という夫妻と相談して国際法華経学会が開催されました。実は、ニューヨークのコロンビア大学(名誉教授)のバーバラ・ルーシュという先生の教えによってやったということなのです。立正にも田村芳朗という先生(前・東大教授)がいて、僕はあまり気が進まなかったのですけれども、周囲から「行こう」と無理やり連れていかれました。
ハワイ大学で最初をやって、第2回目を立正と大正の共催でやって。第3回は、やはりいろいろあって、ハワイ大学で。第4回も立正でやるというようなことで。いろいろな方が見えたのです。名古屋の南山大学というカトリック系の大学の先生などもそこへ来てくれたりして。
髙橋堯英(現在、立正大学仏教学部教授)は、インドのデリー大学へ行って、すごく英語ができる人です。そうした方との縁があって米国へも行きました。
NHKラジオ・テレビとのご縁をいただいて、その後、平成8年から「法華会」で在家の方々のために「法華経講話」を継続したものを『法華三部経大講義』として昨年まとめて出版していただきました。
若いときには次から次へと出版依頼が来て、やさしいものを書く機会が多くなり、本格的な論文執筆から遠ざかってしまったのが残念でなりません。
実は、もう少し書きたいのだけれども、僕のほうも考え方がいろいろ変わってきて。先ほど言いましたように、古典的に言い伝えられてきた日蓮のイメージに固執するべきではないのではないか。『観心本尊抄』に書いてあるようなことは、実は比叡山にいるときからそういうイメージを持っていたのではないか。そういうことを書かなくてはならないなどと愚考しています。
インタビュー日:2022年5月19日
日蓮宗法立寺(足立区)
文責:金澤豊(仏教伝道協会)