名僧は語る

8.仏について

松濤弘道(まつなみ こうどう)浄土宗

松濤弘道
(まつなみ こうどう)
浄土宗

松濤弘道(まつなみ こうどう、1933年 - 2010年 )浄土宗僧侶。大正大学卒、ハーバード大学大学院修士課程修了、文学修士。上野学園大学国際文化学部教授。上野学園図書館長。

「この世に、はたして仏はいるのかどうか」
という質問をよく受けますが、仏とはいるのではなく、あるものだと思います。

 人智の発達していなかった昔や子どもの頃は、仏とは、ちょうどサンタクロースや雷さまのように天上にいて、人間の形をしていつも私たちを見下ろしているような存在だと、考えられてきましたが、私にはとても信じられそうにありません。

 では、いったい仏とは、どのような存在なのでしょうか。

 仏とは、
 「この世にあるすべてのものを、しあわせに導く条件である」
といってよいのではないかと思います。

 それは過去から未来にわたって、生きている人物や品物や機会を通して知られるものであり、釈尊は幸せになれる条件を満たして、仏(悟りの境地)になった先達であり、私たちもそうした条件を満たせば仏になることができましょう。

 しあわせになる条件とは、すべてのものがほほえめるように、お互いが自分のこの世でやるべきことに専念努力し、他には思いやりの気持ちで接する、すなわち智慧と慈悲のはたらきを兼備(けんび)して、生きてゆくことをさしています。

 大乗仏教では、この世にあるすべてのものに仏になる性質(仏性)があるといっています。中国の学僧・湛然(たんねん)(七八二年寂)は『天台本覚論(てんだいほんがくろん)』に、

 「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」

といって、この世のあらゆる自然物も人間と同様に、仏性があると説いています。

 「だれもが、もし仏性をもっているのなら、特別に修行をしたり努力をしたりする必要はないのではないか」という疑問がとうぜんわいてきましょう。

これに対して鎌倉時代の道元禅師(どうげんぜんじ)(曹洞宗の開祖・一二五三年寂)は、私たちは仏になろうとして修行をするのではない、と考えました。

 彼方にある悟りの境地(仏)を目指して努力をすればするほど、そこに、たどりつけない自分を自覚して苦しむばかりですが、自分はすでに仏の中にあり、仏の中だから修行できると考えたのです。

 “入我我入(にゅうががにゅう)”といって、自分が仏の懐中に飛び込めば、仏も自分の中に飛び込み、自分が仏のようになって、自由自在に生きられるというのです。

 こうした考え方は、一見ごうまんなように受けとれますが、そうではなく、私たちはみんな仏の中にあって、それぞれが、その持ち分を生かす共同存在の一員であるという、謙虚な生き方をすることにあり、もし、自分が仏になったつもりで、わがもの顔に振る舞うとしたら、それは野狐禅(やこぜん)とか念仏ぼこりといって、しりぞけられます。

 私たち自身には仏になる性質はあっても、仏自身にはなれそうにありません。

 しかし、仏にあやかることはできそうです。私自身を振り返って考えてみても、いくらふだん偉そうに見せかけても、実際はヘマや失敗のしどおしで、とうてい人を救ったり教えることのできるまともな人間ではなく、もしその私にできることといったら、周囲にいる立派な知人、友人のはたらきを身に受け、あやかって、それらのすばらしさを人に伝えることくらいでしょう。いや、それすら怪しいものです。

 しあわせなことに、私はいままで直接、間接的に知り合った立派な知人・友人に恵まれています。それぞれにいろいろなことを教えてくださる大恩人です。

 おそらくそうした人も他の多くの人から影響を受けて、今日にいたったことでしょう。

 知人や友人たちは自ら「俺はこんなに立派なことをしているんだ」という押しつけがましい教えを、たれているのではありません。私が勝手にそう受けとっているだけの話です。

 このように考えると、私たちはちょうど鏡みたいなものではないでしょうか。

 鏡はつめたいガラスでできていて、それ自体にはたいした価値もありませんが、太陽の光を受けると反射して明るさも熱も太陽の光と同じものを発光します。

鏡が曇っているとせっかくの光は反射せず、自ら発光もしません。

 私たちに仏性があるというのは、鏡のように太陽の光を映す性質を持ちながら、それを磨かないでいると宝のもちぐされで、一生を終わってしまうということでしょう。

 仏の光を受けて歩んでいる人には、その光が反射して自然に表情や態度になって表れ、その反射した光は連鎖的に、他の心ある人をも照らすのでしょう。
 詩人の坂村真民(さかむらしんみん)(二〇〇六年没)さんは学校を退職してから視力障害でほとんど見えない状態になったとき、「その人」という詩をよんでいます。

  暗い日々の 暗い夜々の
  半盲のあけくれのなかにも
  消えてはともり ともっては光るものがあった
  その人の名を呼ぶとき
  その人を念ずるとき

私たちの心の中に、そうした放射性の光である、仏性が宿っていることに気づき、仏を無心に念じたとき、私たちも仏の光に照らされて仏と変わらない花が開き、三昧の境地に入れるのではないでしょうか。