名僧は語る

10.法灯明について

石上善應(いしがみ ぜんのう)浄土宗

石上善應
(いしがみ ぜんのう)
浄土宗

石上善應(いしがみ ぜんのう1929- )浄土宗僧侶。大正大学名誉教授、前淑徳短期大学学長。2014年、瑞宝中綬章受章。2016年、仏教伝道文化賞受賞。

 釈尊(しゃくそん)はクシナガラの郊外、シャーラ(沙羅)樹の林の中で最後の教えを説かれた。『弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火(ともしび)とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。この法を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。』
(『仏教聖典』ほとけ 第一章 史上の仏 第二節 最後の教え)

 釈尊の教えの中には、「自灯明(じとうみょう)、法灯明(ほうとうみょう)」ということばがあります。自らをともしびとする。自らをよりどころとする。と同時に、仏の教えを示した真実のことば、ダルマ(法)をよりどころとし、ともしびとしていかなければならないといいます。

 自分をともしびとし、よりどころとするだけではなく、その私を支えてくれるものは法である。真実の教えであるということを示しております。

 釈尊が亡くなるときにも、「法によれ」ということをいっておられます。私が亡くなった後には、何がよりどころかといえば、すべては法である。

 人々は、やはり人生の指針たる、釈尊というその人がおられたればこそ、その教えに従い、そのことばに従って行動を共にしてきました。

 しかし師表として行動を共にすべき釈尊がおられなくなったとき、いったいだれを中心にすべきか、いったい何を求めていったらいいのかといえば、釈尊の教えられた真実のことば、教えそのもの、法そのものをともしびとし、よりどころとしていかなければならないことを示していると思います。

 たいへん仲のよいご夫婦がおられました。ある時奥さまが、ふとご自分の人生を振り返りながら、これからの人生について考えられます。

 もうじき夫は定年を迎える。そして、その夫もいずれは死んでしまう。すると、残された自分は一人になってしまう。今まで自分のよりどころとなっていた夫がなくなったら、私はどうしたらいいのでしょうか。そう思うと不安でたまらなくなってきました。

 そこで、宗教の本を読んだり、いろいろな方に話を聞いたり、カルチャーセンターに言って、仏教の話も聞くのですが、いっこうにらちがあきません。何かお先真っ暗の思いに駆られ、不安な日々が続いていますが、いったいどうすればよいでしょうか。というお話がありました。

 このご夫婦の場合、今までお二人がどうして仲がよかったのか。そのことを振り返りながら、そのよき理由をご自身でつかみ取り、もう一度社会を見直してみますと、ああそうだったのか、という何かがわかってくるに違いないと思います。

 そして、自分自身が頼りない。いつも何かに、誰かに頼りながら生きてきた心のあり方をどのように変えてゆけばよいのか。また、どうすればこれからの人生を楽しく送ってゆくことができるのか、という問いには、一度ご自身の周辺を静かに見渡してみてはいかがでしょうか。

 すると、それぞれに自分の生き方に合った人が不思議といるものです。その方たちとお付き合いされ、また、お互いに足らざるを補い合いながら生活をしていったら、それからの人生はまた違った、楽しい人生になってくるはずです。

 たまたま愚痴をこぼしたくなって、ある方のところに愚痴を聞いてもらおうと思って行ったとたん、相手の方に、にっこり笑って「よく来たね」と声をかけられ、いろいろな話をすることになります。

 話が終わって帰ってきたときには、何のために出かけていったのか、もうすっかり忘れてしまっている。愚痴をこぼしにいったのに、逆に、にこやかに自分を包んでしまうような人の態度に接して、いつの間にかすべてを忘れてしまう。

 こういうことがよくあるものです。このように相手を包み込むような人がいるものです。

 もしも自分が弱き人間であるならば、そういう方と接点をもちながら、互いに補い合っていくときに、自分のよるべもはっきりしていくことでしょう。お互い不完全です。

 不完全な者どうしが、完全なものを求めていくのは、補い合うところにもう一つの生き方があるのです。

 ただ相手のいい分をのみこんでしまうのではなく、何か自分の背中がずしっとしたバックボーンのようなものに支えられて、その上で、包み、あるいは包みこまれるような人たちと支え合いながら生活してゆくことが、とても大事なことだと思います。

 釈尊が説かれる「自ら」とは、実は目に見えない、法の力に支えられている「自ら」のありようを教えておられたのです。

 釈尊の教えに接したときに、釈尊のことばに私どもは感動します。感動したということは、いつの間にかそのことばに自分自身が包みこまれているということです。

 いろいろな悩みをもち、いろいろな不安に駆られたその後に、今までの体験を振り返ってみると、「そうであったのか」とまさしくそれは合致している、なるほど教えは間違っていなかったということに気がつく。

 その上で、私自身のその後の生活がゆとりある楽しいものであるならば、まさしくそれこそ、

「法を灯火とし よりどころとした人」

 ということになるだろうと思います。
そしてその後は、もうすべておまかせする以外にはありません。

 大きな偉大なみ仏の力におまかせする以外にはないと思います。人生はせこせこと過ごすものではないのです。

 大らかな気持ちをもって、その仏のおいのち(法)の中に包まれている「自ら」を発見することが大変大事なことだと思います。

 私という存在は、仏のいのちの仲に包まれていることを知ったとき、本当の意味の楽しさ、本当の意味の自由さというものを身につけることができるでしょう。

 そのためにこそ、私どもは釈尊の教えどおりに自らをととのえていくことがやはり人生にとって大切なことと思われます。