こころの糧
剣から鍬へ:米軍知識人から仏教の目覚めへ/山下清真師のインタビュー
このインタビューは、カリフォルニア州バークレーの沼田仏教翻訳研究センターで行われた。沼田センター前所長の山下清真師と私(聞き手)はレコーダーを二人の間において小さなテーブルに座った。このセンターは、南バークレーにある住居を改装した建物で、25年以上も前に、仏教伝道協会の創設者 沼田惠範師が設立した仏典翻訳センターである。柔らかな日差しに照らされた部屋は、以前この建物の前オーナーであった、有名なChez Panisseレストランのシェフ兼経営者、アリス・ウォーター氏のダイニングキッチンだった。また一方で、この建物では完成までに100年以上はかかるであろう大蔵経の英訳事業が展開されている。この二つの全く異なる世界が交わった空間から生まれるドラマを語らずにはいられない。
敬称略
聞き手=Ken Kaji, NIKKEI HERITAGE-Vol. XIX, Number 3・FALL 2008-
※翻訳:大來尚順

- 山下清真師
- 聞き手 :
- 幼少の頃に大切にしていたことや、あなたの人生に大きく影響を与えたものはありますか?
- 山下 :
- 幼少の頃から現在に至るまで、様々な出来事という糸が複雑に絡み合った人生でしたが、その中に一本の太い糸があります。それは、浄土真宗という宗教です。私は、シアトル近郊のアーバンという町の農家に生まれました。幼い日々の記憶を辿りますと、私は二階建てのアーバン仏教教会(お寺)の近くに住んでいました。一階は、日本語学校の為に使用されており、二階が本堂でした。仏教教会には、住職はいませんでしたが、毎週日曜には、どなたかの先生が仏教教会に来られていました。私の父は、非常に信仰深い人でした。父がお寺の戸締りなどの管理をする当番の時は、私もストーブの薪を二階へ運んだり、何かとお手伝いしました。私は、お寺の内陣と庭を大事にする環境で育ちました。つまり、私はお寺の子だったんですね。
幼少の頃に、もう一つ大きな出来事がありました。それは伝染性のインフルエンザが私の町に流行し、私は8歳か9歳の時に、深刻な髄膜炎で倒れました。その日の深夜、父は私を病院へ連れて行き、その時偶然にも内科医の院長が夜勤で深夜まで病院にいらっしゃっていて、私は一命を取り留めることができました。
- 聞き手 :
- いつ大学に行ったのですか?また、(戦時中)日系人収容キャンプへは入ったのですか?
- 山下 :
- 戦前の1938年、私はシアトルのワシントン大学に入学しました。私の本来の目的は、外務省で働く勉強をする為でした。私は日本語学校へ10年通っていたので、日本語の能力は非常に高いものでした。しかし、その当時、この職に就くことは非常に難しく、限られた仕事だったので、「山下、もっと現実的になれ!!」と言われ、この道を断念しました。
その代わり、私はA.B.A (ビジネスの学位)取得を決意しました。1942年は疎開の年で、アーバン付近の地域の人間は皆避難しなければなりませんでした。私はちょうどこの年の春に学位取得を予定し、卒業に必要なすべての単位を取得しましたが、一つだけ単位を貰えませんでした。真偽のほどはよくわかりませんが、何かしらの問題で単位が貰えず、結局その春に卒業できませんでした。しかし、2008年の5月、長い時間を越えて、同じように1942年の春に、日系人に対する教授からの差別と嫌がらせによって卒業させてもらえなかった多くの日系人に、ワシントン大学の学長より一人ひとりに謝罪の言葉とともに、名誉学位証明書が手渡しされました。
私と家族は、Pinedale集会センターへ行き手続きの後、Tule Lakeという所にある日系人収容キャンプへ送られました。私は、1942年の8月、差別によって一学期間延期された卒業証明書と学士号を手にしましたが、ファンファーレも卒業式もなく淋しいものでした。
1943年、私はコロラド大学の米国海軍日本語 / 東洋言語スクールで教鞭をとらないかという話を頂きました。ここの学生は、第二次世界大戦で戦った兵士で、後に日本の占領政府で語学力を活かし働きました。1年半後、私は海軍に特別翻訳者としてコロンビアへ招待されました。後に、私はハーバード大学の語学学校で日本語を教えました(1944年~45年)。
戦争が終わると、私は1946年にコロンビア大学の大学院に進学しました。また、その当時、私は行政機関を通して、戦前に日本へ行ってしまって離れ離れになった私の家族を再び元に戻すということもしていました。
父は、1943年に日本で亡くなりました。母と二人の妹は、日本で頑張っていました。私はどうにか、3人をアメリカに連れ戻すことができました。そして、私自身は日本に残り、アメリカ市民として軍事関係の仕事をしました。私は軍事情報司令部で働くことはありませんでしたが、1950年~1982年まで、東京で空軍の知識人達と仕事をしました。仕事の詳細は機密扱いなので、お話できません。まあこれがアメリカ国民の多くが、軍隊の知識人が日本占領時に何をしたのか、ほとんど知らない理由なのですがね。
- 聞き手 :
- 浄土真宗本願寺派 築地別院での仏教活動とIBA(国際仏教組織)についてお話して下さい。また僧侶になったことや、それからの生活についてもお話して下さいますか。
- 山下 :
- 戦後、日本の若者は宗教や精神的価値に、ほとんど興味を示しませんでした。また、アメリカとは違い、日本には毎週の礼拝など定期的な宗教行事はありませんでした。これが縁で、東京でアメリカ軍として働く信仰深い日系二世の仲間との協力によって、1949年にIBAが築地別院内に設立されたのです。ここは、日系二世や他の仏教徒兵士にとって大きな心の拠り所となる場になりました。
私たちは、アメリカから来た仏教徒として、他の国の仏教徒に会いたかったのです。
IBAでは英語の授業や法話など様々なプログラムを日本人に開講しました。これらのプログラムを担う先生方は、米国仏教団(浄土真宗本願寺派のアメリカ合衆国本土における布教組織)の開教使だけではなく、ボランティアで協力してくださる方もいました。
特に、浄土真宗西本願寺の大谷光照前門様は、将来の仏教伝道において、語学と異文化理解の重要性に気付かれており、IBAを惜しみなく援助してくださいました。
私は、僧侶になろうと決意し、築地本願寺内に開講されている東京仏教学院に入学(1951-1952)し、1952年に得度を受け、本願寺派の教師資格を得ました。その後、1983年に大阪の高槻市にある行信教校(浄土真宗の私塾)で親鸞聖人の教えを学びました。

- 沼田仏教翻訳研究センター
- 聞き手 :
- 沼田センターの所長時のお話をしていただけますか。どうしてセンターの所長になったのですか?また引退された現在、どんな思いをお持ちですか?
- 山下 :
- 仏教伝道協会を発願された沼田惠範師は、お寺の三男として生まれ、1920年代に
UCバークレーで統計学の学位(修士号)を取得された方です。学生の頃、ひどい
病にかかったそうですが、仏教への信仰心で病を克服し、報恩感謝の思いで、仏
教伝道を志されたそうです。
また、沼田師は精密機器を生産するミツトヨという会社を興し、また仏教伝道協会の設立をされた偉大な方です。と同時に、仏法にすさまじい信仰心をお持ちの方でした。
沼田師のたった一つの願いは、『仏教聖典』の普及による世界へ向けた仏教伝道でした。ギデオン協会のキリスト教の聖書のように、『仏教聖典』は様々な公共施設、ホテル、学校に頒布され、現在では44ヶ国語に翻訳されています。
ミツトヨを興し仏教伝道協会を設立された沼田師の次なる目標は、大正新脩大蔵経の英訳事業でした。
師は、IBAが東京で行っている活動が本当にお好きでした。というのは、IBAは毎週の法話会などを通して仏教伝道に努めていたからです。そして、ある日、師は私の所まで来られまして、バークレーの沼田仏教翻訳研究センターの所長をしてみないかとお話され、私に勧めてくれたのです。
これは、契約書など何もなく、ただ“仏教伝道”という共通の願いとお互いの信頼を基とした言葉を通じての同意でした。こうして、私はバークレーに来たのです。師は私を選び、そして私はそれを引き受けたのです。なぜなら、私は師が望んでいることを理解していたからです。
- 聞き手 :
- 他に何かお話して頂けることはありますか?
- 山下 :
- 沼田師の第二の目標である英訳大蔵経の事業ですが、世界には2500を超える様々な経典があります。師と英訳大蔵経編集委員会は、この多くの経典の中から特に重要と思われる139冊を選び、事業は現在でも着々と進んでいます。この事業は、次の世代、またその次の世代まで続いていくでしょう。もしこの事業に素晴らしい結果が潜在しているならば、必ず誰かがそれを受け継ぎ完成に導きます。と同時に、その過程の中で、様々な研究者が生まれたり、新しい発想が生まれたりするでしょう。
私は、今ここに生かされている自分のご縁に深く感謝しています。私は、若い方々に、彼らが知らずと受け継いでいるものに感謝し、言語・文化・宗教が人生にとっていかに大切かということに気づいて欲しいと思っています。
彼らがこれらの価値を見出し、彼ら自身の解釈でその仏教という教えの大切さを、次の世代に伝えていって頂ければと願っています。






