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座談会「仏教伝道文化賞・功労賞、両受賞者に聞く~世界に弘がる仏教のこころ~」下巻

- 写真左から稲垣久雄師、奈良康明師、福山諦法師、沼田智秀師
- 沼田 :
- 福山理事長がおっしゃられた、抜苦与楽(ばっくよらく)は大切な教えですね。少欲知足(しょうよくちそく)など智慧・慈悲の教えとか、いろんな仏教用語で表わされますが、奈良先生は今の若い人に仏教をどう伝えていますか。
- 奈良 :
- 説明の方法をもう少し考える必要があると思います。例えば、四聖諦(ししょうたい)という言葉があります。苦集滅道(くじゅうめつどう)ですよね。人生は苦なり、苦の原因は欲望である。だから、欲望を滅すると苦もまた滅する。そのための実践が八正道(はっしょうどう)であると。
その通りです。しかし、先日、ある程度漢文を読める外国人と議論していましたら、この滅を、ゼロにするという意味のannihilate(アナイヒレイト)と、本当にゼロにする意味でとるんですね。確かに、滅ということは、「滅する」ということです。だけど、欲望をアナイヒレイト、つまりゼロにするなんてできっこないでしょ。それを欲望を無くせ、と説くから、外国の方に突っ込まれてしまうのです。
そして、日本の若者からも、「仏教では欲望を否定するんですか」という質問が結構出てきます。しかし、そうじゃありません。
ちょっと専門的なことになりますが、苦集滅道の滅というインドの原語は、nirodha(ニローダ)という梵語ですが、これは無くすという意味ではないのです。遮る、ブロックするという意味です。水が流れてくるものを、土か何かで妨げて流れないようにする、というのがニローダの意味です。ですから、欲望をゼロにするんじゃなくて、苦をもたらすような欲望を抑制して、欲望が実際に「ハタラカ」ないようにすることなんです。苦そのものの滅ではなく、苦のハタラキの滅なんです。
- 沼田 :
- つまり少欲知足ですね。
- 奈良 :
- ええ。もし少欲知足が、欲望をゼロにするんだったら、少欲も何も無くなってしまいます。そうじゃなくって欲望をしかるべく抑制していくのが少欲なわけです。そこから知足につながります。
煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)とか、煩悩(ぼんのう)を滅するとか、私ども僧侶は伝統的に何の疑問もなく使っている言葉ですが、それをそのまま説きますと解ってもらえないと思います。そういう誤解を招く説き方はやめましょう、という本を作っても良いのではないでしょうか。
- 沼田 :
- その辺りの点は誤解されやすいですね。煩悩をすべて否定してしまったら、生存すらできなくなってしまいますね。
- 奈良 :
- 特に現代社会の若い人に仏教を聞いて欲しいのであれば、その辺りの説き方の方法論をもう少し検討しなければならないと私は思いますね。
- 沼田 :
- 少欲知足は幸せにもつながりますね。知足を知らないと、仏教で言うところの餓鬼(がき)のような心になってしまいます。“まだ足らない、まだ足らない”という考えが基になって、現在の金融危機も発生しているところもあるのではないでしょうか。
そういった仏教の基本的な部分を、どうにかして伝えられないかとの思いもありまして、言葉だけでなく、音楽を通じて仏教を広める活動にも取り組ませて頂いております。
- 稲垣 :
- 先ほどヨーロッパで真宗会議の話をしましたが、そこで帰敬式(ききょうしき)も行うのです。参加した人は、法名(ほうみょう)が貰えたと、喜んで大事にします。10年ほど前の話になりますが、会議の初めに読経をしますが、その時に『六時礼讃(ろくじらいさん)』を選びました。『六時礼讃』は善導大師の『往生礼讃(おうじょうらいさん)』で、浄土教系統では良く使われているのですが、勿論、一般の聴衆にはお経の内容は全然分かりません。ふと気がつきますと、聴衆の中に涙を流して聞いているドイツ人女性がいました。その方と、5年ほどして再会したのですが、その人は、その時の読経の印象をまだ覚えていると言うのです。
仏教伝道協会は、仏教音楽を大切にしておられ、その点も大いに社会に意味のある仕事だと思います。単なる音楽ではなく、古典的な流れのある声明(しょうみょう)は、世界に通用するものです。これは誰が聞いても素晴らしいのではないかと思っています。
- 沼田 :
- 宗教は論理的な面と、感情に訴えるところがありますね。宗教的に感動を与える、それだけで救いが成就すると言っても過言ではない、ご縁によっては宗教体験を得るというものもあるのではないでしょうか。
- 稲垣 :
- 日本では、各宗派それぞれの儀式がありますが、海外では複雑な儀式はありません。先ほどの法名の話ですが、こういった簡単なものも最高の喜びにつながるのです。日本では形式仏教とか、仏教が形骸化したと言われていますが、形式的なものでも外国では生きて使えるのですね。同じものでも、手のひらを返せば非常に大きな伝道の力になっていくのだと思います。
- 沼田 :
- 法華経を中心とした天台宗や日蓮宗、高野山を中心とした真言宗、浄土教の念仏、そして曹洞宗や臨済宗などの禅宗といった、日本仏教は4本の足で立つテーブルのようなものですね。その中で、論理的に一番うるさいの
が禅と念仏ではないでしょうか。鈴木大拙先生は禅の方ですが、晩年に『真宗入門』という書物を書かれておられます。また、当協会で研究員もつとめられておられた、坂東性純先生は「道元禅
師のみ教えと、親鸞聖人のみ教えは非常に共通点がある」、とおっしゃっておられました。
坂東先生のご自坊は、報恩寺と言いまして、親鸞聖人二十四輩の第一番目の性信(しょうしん)という、親鸞聖人面授の直弟が開基です。その報恩寺本堂を見ますと、阿弥陀如来と親鸞聖人が並んで安置されているので
す。そして、びっくりすることに、親鸞聖人の手に、禅師さまが持つ払子(ほっす)が握られておられます。その意味について、坂東先生は生前、「親鸞聖人が京都にお住まいの時、間違いなく道
元禅師とお会いになっておられ、その時に頂かれた払子だ」と、おっしゃっておられました。
- 稲垣 :
- 私も坂東先生からその話をお聞きました。道元禅師が親鸞聖人に与えられたと。
- 沼田 :
- 「親鸞聖人は道元禅師のお葬儀にお参りしたのではないか」という話も聞きました。

- 福山諦法師
- 福山 :
- 日蓮さんだけがちょっと年代が違いますが、道元禅師、法然上人、親鸞聖人の三人は同時代ですから、お互いに牽制しあったり、会ったりしていたかも知れませんね。歴史的な事実としては分かりませんが。
- 稲垣 :
-
日本では、禅とか念仏を分けて考えますが、外国では必ずしも分けていませんね。実際に禅と念仏はぜんぜん別なものではなく、重なることが非常に多いです。
- 沼田 :
- ワシントンD.C.の惠光寺では、念仏メディテーションというものをやられておりますね。椅子に坐ったままですけど、念仏を称えたあとにメディテーションをする。このスタイルがアメリカで受け入れられていると聞いています。
- 稲垣 :
- 私もロンドンの英国真宗協会でもやっておりました。初めにメディテーションを行うのです。坐禅とかいうものではなしに。5分ほど瞑想するのです。そうすると、皆さん落ち着いてよく話を聞いてくれました。メディテーションを宗派として考えると別なニュアンスがありますが、仏陀(ぶつだ)の時代からあるインド人の坐る形ですからね。そういう態度で仏教を聞いて行くことが大事だと感じています。
- 奈良 :
- 私もですね、禅と念仏、入り口はかなり違うんですけれども、一番奥底の所は同じ世界に行くんじゃないかと思っております。端的に言いますとね、お念仏の自然法爾(じねんほうに)の世界で、「私が申すのではない、阿弥陀様の方から申させて頂くお念仏」というのがありますね。それは、坐禅も同じだと私はうけとらせていただいています。
道元さんが、「仏道をならうは自己をならうなり、自己をならうとは自己をわするるなり」とおっしゃいました。これまた英語で直すとフォーゲット・ザ・セルフ (Forget the self) になっちゃいます。ところが、フォーゲット・ザ・セルフって言いますと、セルフはセルフですから、ハカライででっち上げている自我的自己と、本当の自己を区別しません。ですから、フォーゲット・ザ・セルフって言うと、自分の存在がなくなってしまうのか、という疑問が出てくるので、説明が必要になってきます。
しかし、道元禅師がおっしゃった「自己をわするる」という世界。禅師様の前でこんなことを言うのもなんですが、私どもが教えて頂いているその坐禅は、「坐禅をしたら、そこにあらわれているのは自我的な自己ではなくて、自我を離れた仏(ほとけ)としての自己が坐る」わけでしょう。ということは、自然法爾の世界も道元禅師の世界も「自己をわするる世界」でしょうし、そして、坐禅とかお念仏が絶対なる存在の方からおこなわさせて頂いている行(ぎょう)だということでは、同じだと思っているのですが。
私はそれをさらにもう一つ広げて、これは仏教の教理学からいうと乱暴な言い方になるのですが、例えば四諦八正道の中にも定(じょう)があります。六波羅蜜(ろくはらみつ)の中にも定があり、これは禅定(ぜんじょう)のことですよね。それじゃあ、お念仏の信者さんも坐禅をしなくていけないのか、という問題がでてきます。教理的には定は定で、お念仏は禅定ではありません。
しかし、それを、教理ではなく、現代の世界に四諦八正道を活かす、そして、どう理解すれば良いかという信仰の面で言い直して行くならば、その四諦八正道の定は、無我の世界へのチャンネルということで、お念仏と相通じるところがあるのではないかと考えているのです。ただし、教理学として言うと、これは読み過ぎになってしまいますので、そこまでは言いませんけれども、現実の問題としては、お釈迦さんの言ったその行は、無我の世界に入ったうえで教えが入っていく世界だと思っています。
- 沼田 :
- 大乗仏教である以上、宗派を問わず、“自己の我執の殻をいかに破るか”と、いうことがありますので、禅と念仏という視点から、改めて共通点を考えさせられる所ですね。
奈良先生から、仏教学の立場から坐禅のお話がありましたが、実践されておられます禅師様の立場と、仏教学の解釈に違いはございますか?
- 福山 :
- それはありません。実は、私も若い時は、できたら仏教学者になりたいと思っておりました。努力が足りないのと、もとがなかったということがありまして今、大衆(だいしゅう)を教える立場になりましたが、言葉数が少ないので困っています。「正法眼蔵」をはじめとして、いろいろご開山の教えを皆さんに解りやすいように説こうと思っても、言葉足らずでうまく行かないこともあります。ですから、もう少し勉強しておけば良かったと思っております。今になってつくづく思います。「夕暮れて道を知る」でございますね。
- 奈良 :
- 禅師様のように、お師家さまで、法に同(どう)じながら生きて来られた方の立場とすれば、特に言葉で説明しなくても、むしろ、「全身で法を説く」と言いますし、禅師様がご自分のお言葉でお説き頂くのが一番良いと思います。
問題なのは、むしろ私ども学者の立場です。学者はどうしても理屈が先に立ちましてね。理屈とは論理ですよね。10人いれば10人全員の理屈が違いますから、議論になってしまうのです。そうではなくて、先ほど私が一人称と言ったのは、「理屈っぽいこと言っても、私はこうやって受け止めて生きているんですよ」と、主張するより他ないのじゃないかと、学者の立場からこういうふうに申し上げたいのです。
- 沼田 :
- 論理的な面も仏教であるし、情的な面も非常に大事であるという点から見ますと、禅師様から一言お話を頂けただけでも、ものすごく深い感動を得る方もいらっしゃるでしょうし、反対にいろいろと疑問をどんどんと理論的にぶつけてこられる方には、やはり論理的にお話されないと納得されないこともありますし、両方の面が大切ですね。
- 福山 :
- 毎年、若い雲水(うんすい)が百人ほど上山(じょうざん)してまいります。それぞれが問題を抱え、色々な思いを持って上山しているとは思うのですが、今のところ、そのような個人的な悩みや、考えなどが雲衲衆(うんのうしゅう)と、ぶつかることはありません。しかし、そのうちにぶつかって問題になるのではないかと思っているのです。そうした場合に言葉足らずになることを今から恐れております。僧堂には西堂(せいどう)、後堂(ごどう)、単頭(たんとう)という雲衲(うんのう)を指導する係がおりますから、私自身があまり難しいことを言わない方が良いとも思っています。
先ほども言いましたが、私自身、仏教学者になりたいと一生懸命勉強していました。でも、永平寺で坐禅していますとね、今まで一生懸命に仏教の言葉を覚えていたのに、只(ただ)坐れ、不立文字(ふりゅうもんじ)で文字など要らないと言われ、“180度、逆の方向へ進んでいるのではないか”という疑問を随分もちました。今の若い人も、そういう疑問を持っている人が随分いるのではないかと思います。
- 奈良 :
- 昔からのように、とにかく文句を言わずにただ坐って、僧院の清規(しんぎ)に従って修行しろというのは非常に重要だと思います。それがないと、身体から入ってくるものが無くなってしまいます。本当に、頭から入った理論というのは理論でしかないので、実際にどう生きていくのか、っていうことには関わってこないんです。ですから、これが仏様の生きる道、これが本当の自分に出会う道だ、として僧院で叩き込まれてきた生き方として、押し通して行くほうが首尾一貫するだろうと私は思いますね。
人間は理屈っぽい者ですし、その人が熱心な修行者なら、理屈は後から自分でどうにでも探ってくるものでしょう。しかし体験がないと何も出てこない。
- 沼田 :
- 奈良先生がおっしゃる一人称は、“この身”ということですね。身から入っていく仏教ですね。浄土真宗だけでなく、どの宗派でもお称えいたします「この身、今生(こんじょう)に向かって度せずんば、さらに何れの生に向かってかこの身を度せん」という、“この身”としての立場が、仏教を聞く上でも、伝える上でも大切なことだと思いますね。
それでは最後に、仏教伝道協会に求められる役割をお伝え願えればありがたいと思います。
- 奈良 :
- 実践的にやられていることは重要なことだと思います。そこで、法を説く時に伝統的な言い方をもうちょっと検討して、例えば先ほど申しましたように、 “「滅」というのは無くすという意味じゃなくて、越えることなんだよ”と、言い方を変えるというのは、説明する技術の問題なので、これは比較的簡単にできるのではないかと思います。重要なものだけで、2,30はすぐに出ます。そうしたものを研究していく研究会作っていただいて、出版して頂けたらずいぶん説き良くなると思います。
- 沼田 :
- ありがとうございます。では、稲垣先生お願いいたします。
- 稲垣 :
- ヨーロッパ真宗会議を何回かドイツの惠光寺で開催したのですが、本当に素晴らしい寺院です。ドイツ惠光寺をヨーロッパにおける仏教伝道の中心地として、さらに布教活動を続けていただきたいと思います。一つの案として、仏教音楽などを用いて、説明よりもまずは実践、体験するという態度で、いろいろな機会を西洋人に遠慮なく与えていただくと効果があると思います。
- 沼田 :
- 本日は貴重なご意見を賜りましてありがとうございました。今後とも、ご支援、ご指導のほどよろしくお願いいたします。