こころの糧
座談会「仏教伝道文化賞・功労賞、両受賞者に聞く~世界に弘がる仏教のこころ~」中巻

- 沼田智秀師
- 沼田 :
- 毎年、英訳大蔵経の編集委員会を開催させていただいておりますが、もうすでに各先生方からお預かりしている英訳原稿もあり、もう少し編集のスピードアップをしていきたいと考えております。実は、奈良先生からも『坐禅三昧経』の英訳原稿をお預かりしておりますが、まだ出版できておりません。去年は『正法眼蔵』が出版されましたが、英語ですから海外で本が売れるのは普通の事でしょうが、意外に日本でも漢文の経典だけを読むより、英文も合わせて読んだほうが分かるという声も良く聞きますね。
- 稲垣 :
- 以前、龍谷大学仏教文化研究所の仏典翻訳部で『歎異抄』の英訳を出版しました。それを仏教以外の学部の先生にあげたところ、 “日本語より良くわかる”という感想を多く聞きました。
- 沼田 :
- 英語は非常にすっきりした表現で文章が構成されますから、意味が早く伝わることもあるようですね。
- 稲垣 :
- ニュアンスとかになると日本語でなければいけないところもたくさんありますが、牧師さんが英訳の『歎異抄』を読んでいらっしゃるという話もあるように、とにかく英語で活字にしておくと読んでくれる人が出てきますね。
- 沼田 :
- そういった方はたくさんいらっしゃいますね。例えば、上智大学名誉教授のアルフォンス・デーケン博士。この方は、イエズス会の神父さんですが、英訳の『歎異抄』『正法眼蔵』などを読んで、西洋に影響を与えているようです。
- 稲垣 :
- 『正法眼蔵』は、世界中の人が注目しますからね。道元禅師と言うと『正法眼蔵』となりますから。
- 沼田 :
- 禅の世界的な広がりと言えば、アメリカには禅センターが多く設立されていますね。日本の曹洞宗や臨済宗で学んだ方が、母国へ帰って禅センターを設立し運営していらっしゃいます。そうやって仏教が海外に伝わる際、翻訳という仕事が重要となりますね。
- 稲垣 :
- かつて私は『日英仏教語辞典』を出版しました。それはロンドン大学に在職していた時、海外で出版された本の書評を頼まれたことがきっかけでした。アメリカの学者が様々な日本語の本を翻訳していたのですが、その翻訳が仏教語になると色々な間違いがあったのです。仏教用語の間違いが目立つのですね。それで日本語科の主任のオニールという、能専門の先生に相談し、辞書を作りたいと言うと、手伝ってあげるということになって、始まったのが『日英仏教語辞典』です。これで少しは日本仏教の理解に役立てると思っています。
やはり、言葉というのは大事なもので、これがないと内容の理解ができませんからね。日本で出版したこの辞書の海賊版が出たという話も聞きましたが、とにかく、使ってくれる人が多いのは嬉しいことです。翻訳すること自体、その基となるような用語の説明が大事になると考えています。私の人生の最後の仕事になるかもしれませんが、大きな英語の仏教辞典を出版するつもりで現在取り組んでいます。
- 沼田 :
- 仏教用語の辞典は、研究者だけでなく、仏教を直接伝える基礎となりますね。仏教伝道協会を発願した父が、アメリカへ行きましたころの話ですが、アメリカでは、自分は浄土真宗だ、自分は曹洞宗だ、自分は天台宗だ、などと宗派の話をしてもダメなんですね。仏教は仏教ということで言わないと、通用しないという事実に遭遇致しまして、一つの宗派に固執せずに、超宗派で仏教を伝道する公の機関として仏教伝道協会を設立させて頂いています。各宗派がより一層、宗派として枠を越えて、もっと連携を強めて海外に対して仏教のものの考え方といいますか、お釈迦さまの教えを広めていかなければならないと私自身も考えております。

- 禅の修行について語る奈良師(写真左)と福 山師
- 奈良 :
- 外国に伝道するのか、日本に伝道するのかで異なる面もあろうかとは思いますが、基本的には共通の問題があると思います。例えば、鈴木大拙先生がアメリカやヨーロッパに伝えたZEN(禅)は思想と心理学の禅で、その役割はもう終わっているんですよ。
そうじゃなくって、現在は禅センターで坐禅するお坊さんが居ます。アメリカ人の青年を一対一で坐らせて、坐禅堂を作り、本堂を作り、寄宿舎を作って、いわゆる禅センターが出来てくる。1970年代からそうした禅センターがアメリカにおいて曹洞、臨済を問わずできてきたことは、大拙さんがアメリカに蒔いた禅の種が今度は芽をふきだして僧院として具体的に定着してきた時代じゃないかな、と私は考えています。そうしますと、ここから先、日本と同じになってくる面もあると思いますが、信仰の社会性、仏教を実生活に活かすという問題が出てくると思います。私は仏教というのは所詮、生きる道だと思っております。生きていくことのなかに、苦というものを克服しながら、本当の自分というものに出合いつつ、どう生きて行くのか、という“生き方”が仏教でしょう。
そこに自ずと独自の世界観があり、教理や思想が形成され、哲学が発展しています。しかし仏教は絶対に、哲学そのものではありません。仏教という、生きる道の中に哲学はあるけれども、逆じゃない。アメリカにおいてはちょっと違う面がありますが、信仰の社会性と言った時に、現代日本で問題になるのは、仏教というと教理なんですね。ですから、仏教の現代化というと、仏教の教理を易しく現代の言葉で説く、問うことだけなんです。それはたしかに必要だけれど、それだけじゃ駄目だと思います。
仏教の思想とか教理を仏教者が説く時には、教理をいくら易しく説いても、一般社会には入らないと思います。もし入るとすれば、その説いている人自身が、現代に生きる人間として自信があり、自ずとその人の生き方を見て影響力が及ぼされてくる。それならば布教になると思います。教理理論を説いていても、仏教を現代に布教することにはならないと思っています。
では、それを打破する為にはどうすればよいかということが問題となります。仏教の教えというものは、普通は主語が三人称で、一般論として説かれますよね。例えば、「すべてのものは無常である」、「万物無常」だといいます。これはその通りで、重要な教理ですけれども、この主語を一人称に変える必要があると思うんですね。
「すべてのものが無常だ」ではなく、「私が無常の現実に出会っている」んだと。そういう理解をしますと、途端に無常が単なる思想とか、原理ではなくて、自分を悩ましている現実の問題として、自分の生活に関わってきます。
一般論として、思想として説かれた仏教を現代に出すためには、説く人も、あるいは教団全体も、主語を一人称にして、“私はどうするんだ”という問題にすることによって、現代化してくるのではないかと、そんな風に私は思っています。
- 沼田 :
- 親鸞聖人も一人称で説いておられると思います。「親鸞におきては」とはっきり述べられる場面が、肝要なところで使われておられます。仏教の出発点というのは、「苦悩を抱えた私が今、ここに居る」という所から始まっていますね。仏教というのは私という一人称で受けとめるべきものだと思います。
- 稲垣 :
- 浄土真宗の立場はおっしゃるような所ですね。親鸞聖人の教えはご自身の問題から始まっています。最後まで、自身が悩んでいくというか。自己の問題が中心となって行かなければならないのですね。自分を抜きにして教理だけを、云々ということではないのです。もともと仏教はそういう所から出発しています。
先ほど申しました「親鸞と浄土真宗」のハンガリー語訳をした人から届いた手紙の話をしますと、その翻訳書が、翻訳者本人の癌のお母さんと癌の奥さんに非常に喜ばれたという事が書かれていました。生々しく、つまり、その翻訳は、学問的な興味だけで訳したのではなく、それをそのまま自分の身近な人に伝えているという感じがするわけです。翻訳して出版するということになるまでには相当検討し、自分なりに咀嚼して翻訳するのでしょうから、心がこもっているのですね。ですから私自身も非常に感銘を受けました。
こういう点で法というのは本当に素晴らしいなということを改めて思うわけです。
- 沼田 :
- 法に出遇うということですね。
- 奈良 :
- 人を通じて、法があらわれるというのは基本ですね。禅宗では僧院における修行が中心です。先ほど仏教を一人称で捉えることが必要だと言いましたが、僧院では、指導者が居て、雲水がいて、みんなが同じ仏道修行を目的とする世界に入っていますから、一人称で説こうと三人称で説こうと構わないのですよ。生活の中に信仰が具現されているのですから。
ところが、信仰を現代社会に説くということになると、やっぱり主語を一人称にする必要があります。主語を一人称にするということは、上から、“お釈迦さま曰く”“お祖師さま曰く”と、下ろして来ることじゃないんです。
実は私、大学で仏教学部ではなく一般学部の学生諸君に対する宗教教育の一環としての「仏教と人間」という必修の科目を持っていたんです。毎年経験したことなんですが、「お釈迦さま曰く、お祖師さま曰く」と持ち出しますと、途端にそっぽを向かれてしまいます。ところが、「この間、自分が生んだ子を東京駅のロッカーに放り込んで死なしちゃったお母さんが居ただろう」というと「ウン」と、頷く。秋葉原での事件など、社会にまつわるいろんな例を出していくと、みんな聞きだします。そして、それを「仏教ではこう理解する」「こう見なくちゃいけないんだぞ」と説明すると、ついて来るのですね。かなり、理屈っぽい、「人間とは何ぞや」「自己とは何ぞや」まで持っていってもついてきます。つまり、視点を上から下ろして仏教を説いていったのではダメだと思います。帰納的な形で説かないとダメなんです。
- 沼田 :
- 確かにそうですね。
- 奈良 :
- 私は宗門の伝統の中に居ます。仏教学の伝統の中にいます。その伝統の中に生きていて、外の社会を眺めまして、“仏教はああですよ”、とか、“こうですよ”、と易しくそれを解説しても恐らく入りにくい。
ある時、曹洞宗宗務庁の出版物の編集会議でこう言ったことがあります。「人に仏教を説くには、一端、宗門の伝承の外に出よう。一般の社会の人間の立場に立って、社会に生きている人間が何を悩み、何を考え、何をして欲しいのかということを考える。それから仏教に向き直って説いたらどうだろう」と。
そう言いましたら、若い僧侶に怒られましてね。「一般の人に法を説くのに、なぜ宗門を出なければならないのですか。坊さんを辞めろと言うのですか?」と。そんなことを言っていないのですが、仏教を見る視座を逆転する必要がありはしないか。
例えば、石原慎太郎都知事や、作家の五木寛之さんなどが人生論を書いておられます。それが売れているんですよ。その中身を見ると、内容的には私どもが説いているものと変わらないのですよ。何で私どもの本は売れなくて、石原都知事たちの本が売れるのか。作家の方々ですので、人生経験や知識の幅が広く、そうしたものを踏まえて、しゃべっているから、話が一般的だということもあるのですが、仏教徒の立場として話しているのではなくて、“人間とは何だろうか”、“どういう悩みを持っているのだろうか”、というところから出発して、“こうでなきゃならない”と言っているから説得力があるのだと、私は思っているんです。

- お釈迦さまの教えについて話す福山師
- 福山 :
- 実際やっておるものとして、私個人は単純に考えておるんですよ。「お釈迦さまの教えは、人生いかに苦を少なくして楽に過ごすかである」と、言うと誤解があるかもしれませんが、楽しく、心安らかに人生を送る、その教えだと思っています。
(下巻に続く)






